2度目の山から下山して、我々は再びキルギス山岳協会を訪ねた。
「なぜ、フリーコリア・ピークというのでしょうか。」
以前から気になっていた疑問を、ウラジミール氏に問う。「フリーコリア」とは英語名であって、現地では「Свободная Корея」=「Svobodnaia Korea」と呼ばれている。意味はまさしく、「Free Korea」=「朝鮮の自由」である。朝鮮と中央アジアの関係性については知っていた。第二次世界大戦の頃、日本のスパイになることを疑われた極東に住む朝鮮人が、中央アジアに強制移住させられた経緯があり、そうした歴史が、現在の韓国と中央アジアを結ぶ航路の充実の背景にある。何かそのことが、関連しているのではないかと疑っていた。

しかし、命名の由来となったのは、1950〜53年の朝鮮戦争が直接的に関係しているらしい。韓国のバックグラウンドにアメリカ、北朝鮮のバックグラウンドにソ連、中国があったことは周知の事実だが、ソ連軍としてキルギス人も従軍していた。その中のひとり、クライマーのAndreev G. は帰国後の1959年に初登し、朝鮮の自由を願って命名したようだ。

再入山

5日間の下界ライフを経て、天気予報はようやく好転周期の到来を告げていた。薄ら明るい街をタクシーで出発すると、少しどんよりとしていた。登山口に近づくと、濡れたアスファルトをタイヤが走る音がする。状況を解したくないが、とうとうドライバーがワイパーを動かし始めた。
「雨か・・・」
周囲は濃い霧に包まれていて、肌寒い。気分は乗らないが、黙々と進めば次第に雨は上がっていった。前回は冬期登攀のギアを全て担いでいたので、修行のような道のりだったが、今回は軽快だ。積雪は前回よりも増加したものの、思いの外順調に進み、コロナハットへ。ようやく、この舞台に戻ってきた。

レスト&偵察

標高2000mの登山口から標高4000mのコロナハットまで一気に上がったので、1日のレストとルートの偵察を挟む。目標のルートは1976年にアメリカのレジェンドクライマー、ヘンリー・バーバーが初登したBarberルート。中央の氷雪壁を繋いで頂上直下のコルに抜ける、フリーコリア北壁の美しく合理的なラインである。
ようやくお馴染みの真っ青な晴天に戻り、取り付きまで偵察に向かった。昨日までの新雪が時折膝丈以上あるので息を整えつつ進み、間近で北壁を見上げると、登攀する自分のイメージがより鮮明になり、武者震いする。
クレバスの手前でロープをつけて1ピッチ登り、アイスクライミングになったところから少し進んでアイススクリューでアンカーを構築した。分かってはいたが、氷は非常に硬い。今まで登ってきたヒマラヤやアンデスの氷雪壁は、文字通り氷と雪の中間のようだったが、これは日本の厳冬期の氷に近い。傾斜は垂直でなくとも、ミスの許されない標高差700mのアイスクライミングは、相当な緊張感と集中力を要するだろう。
ロープをアンカーに固定して、懸垂下降でパートナーのもとに戻り、コロナ・ハットへ帰還した。

明日への期待と幾許かの不安を胸に、我々の時間は言葉少なめに過ぎていく。そもそもこの時点で、パートナーのS氏とは2週間以上一緒にいるので、特段話題もないのだが、沈黙が一定時間続いても、プレッシャーや空気の重さをあまり感じない。会話が少なめの食事では、髭を蓄えたS氏の顎が咀嚼のたびにジャケットに擦れる「ジョリ、ジョリ」という音が、妙に気になる。午後は、アックスとアイゼンをひたすらに研ぎ、少しずつシャープになっていく先端とともに、私の心も明日へと向かう準備が整っていった。

夕方、コロナピークに登頂したロシア人3人パーティが、コロナ・ハットに立ち寄った。彼らは疲弊していたが、同時に充実感が溢れ出ており、我々を鼓舞して立ち去っていった。S氏はぽつりと、
「明日は、我々も疲れ切っていたいですな」
そんなようなことを言った。

フリーコリア取り付きを目指す。

勝負の日

未明、闇夜に浮かび上がるフリーコリアの背景に、星が煌めいていない。朝食と準備を済ませて外に出ると、雪がちらちらと降り始める。予報と異なる天候に戸惑いはしたものの、取り付きへと歩を進めていく。昨日フィックスしたロープを使い、雪壁を登ってアンカーについた頃、大きなスノーシャワーに襲われた。その後も絶え間ない雪の滝となってまともに顔を上げられず、時折バランスを崩しそうになるような威力を持ったシャワーとなる。
もはや議論の余地なく、お互いの見解は一致していた。
「降りよう。」
凹状の地形は高距700mにわたる降雪を一気に集め、流れ下る。降雪強度がそれほどでなくとも、ひと度降ればスノーシャワー、ひいては雪崩のリスクに曝され続ける。そんななかでの登攀は考えられなかった。急いで懸垂下降して氷河に降り立つと、今朝のトレースがすでに消えかけていた。次第にあたりは薄明るくなるが、我々の心を反映するようにモノトーンに沈み、茫然としたままコロナ・ハットに戻った。

入山前の天気予報では、翌日はもっと悪いし、その先も希望が持てない。もう、このまま下山すべきではないか、という話にもなった。半ば不貞腐れたようにシュラフに潜ると、昨日の晴天が恨めしく沸々と悔しさが込み上げてきた。
「はるばるキルギスまできて、これで帰るのか?」
「今日の予報が外れたということは、明日の予報もまた良い方に外れるということもあるのではないか?」
そんな自問自答をして、S氏に相談した。
「フリーコリアしか見てなかったけど、周りの山も結構良さそうなんだよね」
と彼も前向きだった。仮に明日晴れたとしても、降雪直後にフリーコリアを登るのは雪崩リスクの観点から厳しいだろう。しかし、アクサイ氷河を取り囲む山々には無数のルートがある。一瞬霧が薄くなったときに見える山々と手元の資料を照らし合わせながら、魅力的なルートを探っていると意欲が復活してきた。一縷の望みをかけて、コロナ・ハットにステイすることにする。

今回はなぜか小屋のソーラーチャージャーが不調で、それを当てにしていた我々はスマホをいじって時間を潰すことができなかった。何度もチャージャーのコネクターを差し直したり、無意味に鍋の蓋を開けて、また閉める。
思えば「本当にやることがない」という状況は、久方ぶりだった。電波がなくともスマホがあればダウンロードした動画を見れるし、大抵kindkeを山に持ち歩いているから、本を読むこともできる。いつしか、暇という状態がなくなっていたように思う。情報をただ摂取するばかりで、自分自身のあえて向き合いたくない負の感情や先送りにしていたものごとを掘り起こして考えることを放棄してはいなかっただろうか。何もない時間は、私にとって贅沢で、有意義だった。

ガスに巻かれる悲壮感漂う背中

大雪

翌日の未明、山は見えなかった。とりあえず朝食をとって様子を伺ったが、雪は降り止まない。
「これは、ダメですね・・・」
あとはもう、荷物をまとめて帰るだけだ。こうなる覚悟はできていたし、自然が相手だから思い通りにならない苛立ちもなかった。

疲れ果てていたい、という我々の願いは、一縷の望みを賭けた今日も裏切られた。自分の力を出し切ることができれば、成功も失敗もあまり関係なかっだろうに、そのタイミングはついに訪れなかった。運が悪かったといえばそれまでだが、振り返ればタクティクスの失敗や改善点もあった。しかし、それも一度失敗しなければわからないことだった。運を味方につけるには、最大限の準備をして、その舞台に立ち続けるしかないのだろう。

山々の見えないアクサイ氷河を、振り返ることもせずに下る。積雪は想像以上に増加し、トレースは当然埋まっていて、ゴーロのモレーン帯にもいやらしく雪が積もっている。雪はいつしか雨に変わり、登山口に着くまで降り続けた。
私の心を満たしていたのは、充実感の溢れる疲労感ではなく、徒労感に近くもあったが、それでも気持ちは次に向かっていた。

登山口にはアカリス
下山後はとりあえず、ケバブロールとビールで乾杯

これから

ウラジミール氏は、我々の年齢を尋ねたのち、
「40〜55歳が、登山をするには最もいい。なぜなら、経験が蓄積し、フィジカル的にもパフォーマンスが維持されているからだ。」
といった。

肉体的なピークはそれよりも前に訪れるだろうし、その発言は我々の感覚と異なっていたが、同時に「これから」ということに希望も持てた。それは当然、「登り続ける」ことで得られるものであり、そこまで情熱を持って継続できることは稀有かもしれない。
アルパインクライミングは、大きな充実感を得られると同時に多大なエネルギーを要し、リスクも伴う。年齢とともに増えていく責任やあらゆる物事の中で、継続していくのは容易ではないだろう。私自身、続けることこそが是だとは思ってはいなし、やめたくなったらやめることに抵抗はないが、まだまだ知らない世界に手を伸ばし続けたい。

仕事をしていれば、日々の生活は安定するし、何か意味のあることをやっている気にもなる。しかし、人生とは経験の合計であり、何かをエネルギッシュに取り組む力と健康は誰でも年齢とともに減衰していくものだから、いつかではなく今、やりたいと思うことをやりたいのである。その経験がまた、次の経験へと結びついていく。

この遠征のもう一つのテーマとして、なるべく国内でいつも登っているようなスタイルで登ることも重視した。それはまず資金面から始まり、他者に協力を仰ぐことなく、自分たちが稼いだお金で遠征に行くことでなるべく精神的にも身軽でいたかったことだ。もちろん、遠征の経験を報告することも重要だが、他人の評価や期待は極力排除して、シンプルに山と自分自身の関係性だけで完結したかった。また、ポーターやBCスタッフを雇う必要のなかったことも、キルギスを選んだ理由として大きい。

こうして、スタイルとしては国内とさほど変わらず登ることができたが、結局のところ我々の登山は他者の協力や理解があって初めて成し遂げられることを再確認する機会となった。それは、海外遠征に限らず、国内での活動も同様に。

ウラジミール氏にフリーコリアのベストシーズンを尋ねたところ、9月とのことだった。理由は、4〜6月は天気が悪く、4月はまた氷が非常に硬い。7,8月は気温が上がって落石のリスクがあり、9月は気温も落ち着き、氷も緩むので登りやすいらしい。前半の好天は珍しいことのようだった。

前回同様、アルコール40%の自家製酒でベロベロになった我々は、キルギス山岳協会を後にして、少し上機嫌に次回へと話が進んでいた。お金も時間も有限で世界には素晴らしい山々が無限にあるから、次回またフリーコリアを目指すかといえばそうとも言い切れない。とはいえ、あの北壁を間近に眺めて再訪しない選択肢はない。ではいつか。それは今、わからないけど自分の心が示す方へ進んでいければいい。

2人での遠征はときにストレスのかかるものであり、お互いにそれを理解しているので、特に大きな衝突はなかった。そもそも、お互いに感情的になる性格ではないが、素晴らしい時間を過ごせたことは、ひとえに年上であることも関係ないS氏の心遣いのおかげである。
もちろん、大した成果はないが、ネガティブな感情はあまりなかった。情報があまりないのだから、失敗は致し方ないし、それを次に活かせばいい。言葉も通じにくいなか、ひとつひとつ問題を探りながら解決していく中央アジアの山旅は、再び海外を目指す大きなモチベーションとなった。

キルギスに来てから、季節が進んだのかわからなくなるほど空気は張り詰めていたが、オークの葉は確実に大きく、そして重みを増して風に揺らめいていた。いつのことか、鳥の囀りがうるさくて、どこかでいつも車が壊れていて、そして、人々が親切なキルギスに、また戻ってくるだろう。

重みを増すオークの葉